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オリジナル扇子の解説

扇子の歴史

エジソンと扇子 │2007年11月07日

 京都府八幡市の京阪電気鉄道「八幡市駅」を降りると、すぐ南に男山(おとこやま)が見えます。男山をケーブルカーで登った先には日本三大八幡宮のひとつ石清水八幡宮があります。
 石清水八幡宮の建立は、弘法大師空海の弟子であった大安寺の僧「行教(ぎょうきょう)」が宇佐八幡宮にて天皇護持のため90日間の参篭参詣をした折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けたことに始まります。清和天皇の命により、すぐさま男山に本殿三宇、礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿が造営され、行教が託宣を受けた翌年、貞観2年(860)年4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座することとなりました。

 以来、石清水八幡宮は王城守護の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、本社は伊勢神宮に次ぐ皇位第二の宋廟とされ、天皇・上皇の行幸や御幸は、円融天皇(第64代)の参拝以来、現在までに実に250余度にも及びます。また、源氏をはじめとする多くの武士が八幡大神を武神として信仰し、特に源頼信にはじまる河内源氏の一族は、八幡大神を氏神として信仰し全国に数多くの八幡宮を建立しました。

 石清水八幡宮の敷地内にはエジソン祈念碑があります。千年をこえる伝統を持つ日本の神社と、発明家のエジソンというのは何とも奇妙な取り合わせに見えますが、エジソンによる電球の開発には石清水八幡宮のある男山と、扇子(オリジナル扇子)が深く関わっていたのでした。

 エジソンは電球のフィラメント(細い線から成る発光部)として木綿糸を使っていましたが、寿命は40時間ほどしかなく、短い寿命は電球を普及させる妨げとなっていました。
より長時間の発光が可能なフィラメント素材を求めたエジソンは、6000種類にも及ぶ材料を試し、その中には友人の髭までもがあったそうです。

 あるとき、たまたま見つけた扇子(オリジナル扇子)の親骨から竹の繊維を削り取り、フィラメントとして用いたところ200時間ものあいだ発光し続けたました。エジソンはすぐさま巨費を投じて世界中から1200種類もの竹を集めます。
 1880年、エジソンの依頼を受けた探検家ウイリアム・ムーアが日本を訪れ、当時の首相であった伊藤博文に面会し「竹なら京都へ」との助言を得ます。ムーアは京都府知事槙村正直から「竹なら男山か嵯峨野がいい」と教えられ、手に入れたのが石清水八幡宮の真竹で作った扇子(オリジナル扇子)でした。
 男山の竹から作られたフィラメントは実に2450時間の発光時間を記録し、実用に耐える電球の完成に大きく寄与しました。こうして、男山の竹はエジソン電灯会社へ輸出され、世界に明かりを灯すこととなったのです。オリジナルの電球には、日本の扇子(オリジナル扇子)からとった竹が使われていたなんて、歴史のロマンを感じますね。

 エジソンの偉業と男山の竹が果たした役割を記念して、昭和9年に石清水八幡宮境内に記念碑が建てられました。毎年、エジソンの誕生日である2月と、命日の10月には記念碑に花が捧げられ、日米両国の国旗を掲揚しての碑前祭が行われています。

落語と扇子

 扇子(オリジナル扇子)をいつも手元に置いている職業といえば落語家です。落語の起源は17世紀の江戸で始まった、芝居小屋や風呂屋で身振り手振りでおもしろおかしく聴かせる「座敷仕方咄」と、同時期に大阪や京都で道端に舞台を設け、自作の噺を語って聴かせた「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)がといわれています。

 江戸前の落語では扇子(オリジナル扇子)と手拭いだけを使って噺を演じます。上方落語では扇子と手拭いだけでなく、見台(けんだい:読書用の小さな机)と小拍子(こびょうし:小型の拍子木)も用いる場合がありますが、これは上方落語が辻咄に起源を持つ名残と言われています。

 落語で使われる扇子(オリジナル扇子)は落語扇、高座扇とも呼ばれ、サイズは七寸五分(22.7cm)が一般的です。楽屋の符牒では「かぜ」と呼ばれます。真打(しんうち)になると自分用のオリジナル扇子を持つことができるようになりますが、白い扇面へ名前とワンポイントの模様を入れる程度で、色の付いた扇子(オリジナル扇子)はほとんど使われません。高座では扇子(オリジナル扇子)を、手つき、視線、動作で様々な物を表現するため、色が付いているとイメージを損なうため、白が用いられているようです。取り出す際に引っ掛かるのを防ぐため、親骨を削って面取りをした扇子(オリジナル扇子)を持つ噺家もさんもいます。

 上方落語の大看板として知られる三代目桂春團治(かつらはるだんじ:1930年生)は、芸に対して研究熱心なことで知られています。70席を超えるネタを持ちながら、納得のいく完成度に達した噺だけを高座で演じるという完璧主義のため、持ちネタが少ないと誤解された事もありました。落語で演じる身振り手振りを追求するために入門した山村流舞は、名手と呼ばれるほどです。

 高座で羽織を脱ぐ姿にもこだわりを見せ、噺の本題へ入る前に羽織を脱ぐ仕草がリズムを悪くしていると考えた春團治師は、羽織を後ろ手で落とすように脱ぐ、独自の方法を考え出しました。さらに、羽織の袂を着物より大きく作ることで動作に誤りがないようにするなど完璧主義者ぶりを発揮しています。そんな春團治師の完璧主義者ぶりが最も現されている噺が『親子茶屋(おやこぢゃや)』です。

 親子茶屋は、商家の大旦那と若旦那の滑稽噺で、明和4年(1767)の笑話本『友達ばなし』中の一遍である『中の町』が元になっています。

 連日のように芸妓遊びを続ける若旦那をさんざんに叱った大旦那、番頭さんの勧めで気晴らしのお寺参りへと出かけます。ところが大旦那の向かった先はお寺ではなく花街、実は大旦那も大の遊び好きで店の者にも知られぬようずっと隠れて芸妓遊びを続けていたのでした。
 「わしが使う、倅が使うではうちの身上もたまったもんじゃない」とぼやきながらも馴染みの茶屋へ上がり、いつものように芸妓を呼ぶと「狐釣り」で遊び始めます。

 ※狐釣り:狐を罠に掛けて捕る猟。お茶屋遊びの狐釣りは歌い踊りながら、扇子の目隠しをした狐役から逃げる鬼ごっこ

釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、狐どんを釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな
釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、親旦那を釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな

 番頭を騙して店から逃げ出してきた若旦那が花街へやってくると、昼間から大騒ぎして遊ぶ声が聞こえてきます。茶屋の女将から、六十を過ぎた年寄りが遊んでいると聞いた若旦那は「昼間から茶屋遊びとは、家の親父にも見習わせたいわ」と、座敷に居るのが自分の父親とも知らず、料金の半分を支払うと申し出て狐釣りに参加します。大旦那が親狐、若旦那は子狐と二人とも扇子の目隠しをしたまま狐釣りが再開されます。

釣ろよ 釣ろよ 信太の森の 仔狐どんを釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな
釣ろよ 釣ろよ 信太の森の 親旦那を釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな やっつく やっつく やっつくな

二人で大騒ぎをしたあと、いよいよご対面と二人が扇子の目隠しを外します。
「あっ! あんた、お父ちゃん!」
「せ、倅やないか! ・・・・博打だけはならんぞ」

 春團治師のこだわりは狐釣りの場面にあります。狐釣りは三分の一ほど開いた扇子を要を下にして額へ当て、しごきを鉢巻きのように結ぶことで目隠しにして遊びます。目隠しの扇子(オリジナル扇子)が先の尖った狐の顔のように見えるという趣向です。

 春團治師は親子茶屋を口演するため、専用の扇子(オリジナル扇子)まで作成しました。扇子(オリジナル扇子)が狐の顔に見える最もきれいな角度で開くよう、扇面の一部を糊付けしたのです。ここまでこだわったオリジナルの扇子を使っているのは春團治師だけだそうです。

歴史の中の扇子(オリジナル扇子)~足利尊氏~織田信長

 次に室町時代から戦国時代における歴史に登場した扇子(オリジナル扇子)を見てみましょう。足利尊氏(あしかがたかうじ:1305年-1381年、室町幕府の初代将軍)が征夷大将軍となった翌年、後醍醐天皇の菩提を弔うため嵯峨の地に寺院の建立を命じました。

 寺は当初、年号をとって暦応資聖禅寺と名付けられる予定でしたが、比叡山が年号を寺号とすることに反対たため、足利尊氏の弟直義が寺の南を流れる川(保津川)に金色の竜が現れる夢を見たことにちなみ天龍資聖禅寺と号されます。1345年、後醍醐天皇の七回忌法要を兼ねて盛大な落慶法要が営まれ、天龍寺は開かれます。その後、天龍寺は京都五山(禅宗寺院の格式における最上位の五寺院)の第一位として発展していくこととなります。

 足利尊氏が天龍寺へ参詣したとき、お供として従っていた童子が誤って扇子(オリジナル扇子)を川へ落としてしまいました。落ちた扇子が川面を流れる様の優美さに尊氏がたいへん喜び、それ以来尊氏の天龍寺参詣に際しては、従う人々がこぞって扇子(オリジナル扇子)を川へ流すようになりました。
扇子(オリジナル扇子)が川面を流れる情景は、後に「扇流し」と呼ばれる文様へとデザイン化されますが、オリジナルデザインはここにあります。流水文の上に様々に開いた扇子(オリジナル扇子)を散らしたこの文様は室町時代に大流行しました。

 現代、尊氏の故事は車折神社(くるまざきじんじゃ)の「三船祭」に受け継がれています。三船祭は毎年五月第三日曜日に行われ、祭神である清原頼業の活躍した当時を偲び平安時代の船遊びを再現するお祭りです。

祭りの日には嵐山の大堰川(おおいがわ)へ二十数隻の船を浮かべ、神霊の乗った御座船(ござぶね)の前で平安時代の装束に身を包んだ人々が芸能、芸術を披露し奉納します。
諸芸の上達を願って神社へ奉納された扇子(オリジナル扇子)が、扇流船(おうぎながしぶね)の上から川の流れへ浮かべる、扇流しの行事が行われると祭りのクライマックスが訪れます。
人々は足利尊氏の愛した情景を川岸から眺め、流された扇子を受け取ることで諸芸上達の御利益を願います。

永禄11年(1568年)9月、織田信長(おだのぶなが:1534年-1582年)は15代将軍足利義昭を奉じ、美濃(岐阜)より京へ上洛を開始しました。信長が南近江(滋賀県南部)の六角氏を退け京へと至ると、京を支配していた三好氏は信長に臣従あるいは本拠地の阿波(徳島県)へ撤退しました。こうして信長は15代足利義昭を将軍として擁立し、日本で最も有力な戦国大名となります。信長が東福寺(京都市東山区)へ入ると、京の名士たちが献上物を携えて次々と挨拶にやってきました。

高名な連歌師であった里村紹巴(さとむらじょうは)も挨拶に訪れ、信長の前へ出ると三方に乗せた二本の扇子(オリジナル扇子)を献上し、句を詠みました。“二本(日本)手に入る 今日のよろこび”すぐさま信長は脇句を詠みます。“舞い遊ぶ千代万代(ちよよろずよ)の扇にて”紹巴との歌の遣り取り伝え聞いた京の人々は、信長が武力だけの乱暴者ではなく一流の教養を身につけた人物であると知り安心をしました。

歴史の中の扇子(オリジナル扇子)~那須与一 扇の的~

 平家物語は平家の繁栄と源家との戦いを経て滅亡するまでを描いた軍記物語で、鎌倉時代に成立しました。源平の合戦のなかでも、両者の運命を象徴する重要な場面が第十一巻那須与一 扇の的です。

 屋島合戦は1185年2月に讃岐国(今の香川県)屋島で戦われました。源義経(みなもとのよしつね)は平家が本拠を置いていた屋島を急襲し、平家は海上へと逃れます。義経の軍が少数であることを知った平家方は船を接近させて多数の矢を射かけました。やがて日没が近づき、自然と休戦になろうとしていたとき平家方から美女の乗った小舟が現れます。
 舟の舳先に立てられた竿の先端には、紅色の地に金箔で日の丸の描かれた扇が付けられ、美女はこちらにむかって手招きをしています。扇を射てみよとの平家からの挑戦でした。義経は源家の面目にかけて扇を射落とすよう命じます。そして選ばれたのが那須与一(なすのよいち)でした。

 与一は的を射ることを一度は辞退しますが、義経に強く命令され、半ば開き直るようにして的を射る役目を引き受けます。黒い馬にまたがった与一は岸からでは的に遠いので馬を海へと乗り入れます。二月十八日の夕刻、厳しい北風と打ち寄せる高い波が的を乗せた小舟を上下に揺らしていました。こうして平家物語屈指の名場面が始まります。

“与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜(た)ばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面(おもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせたまふな」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一 鏑(かぶら)を取つてつがひ、よっぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、誤たず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。
鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日(せきじつ)の輝いたるに、皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。”

 与一の射た鏑矢は的となった扇の要から一寸ほど上に当たり、切り飛ばしました。この平家方が掲げた的の扇は、軍扇であったと思われます。もしかしたらオリジナル扇子だったのかもしれません。軍扇は武士の持ち物で、各自が武運を願い親骨に縁起物の彫刻を施すなどしてオリジナル性を出していますが(オリジナル扇子)、扇面は赤地か金色地に日輪という、共通したデザインになっていました。佐治氏の家紋は軍扇紋と呼ばれ、開いた扇の扇面に日輪が描かれています。

歴史の中の扇子(オリジナル扇子)~平安時代~

 扇子(オリジナル扇子)は、歴史の中にしばしば登場します。まずは、平安時代の中から扇子を見てみましょう。

 源氏物語は平安時代の中期に成立した長編小説です。作中には王朝期の風俗も描写されており、当時の貴族が扇子(オリジナル扇子)を様々な場面に使用していたことがうかがえます。

 源氏物語四帖「夕顔」第一段では物語の主人公、光源氏が従者に夕顔の花を摘ませているところへ童女が現れ、香を焚きしめた白扇を差し出し、摘んだ花を載せるよう勧めます。

「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる 童のをかしげなる出で来て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを「これに置きて参らせよ。枝も 情けなげなめる花を」

 この白扇には贈り主(夕顔)の詠んだ歌が書かれていました。
“心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花”-あて推量に、あれがその花(人:光源氏)かと思って見ています。夕暮れに白露が降りてかすかな光が浮き立たせている夕顔の花(のように美しいあなた)を-
光源氏は上品な筆跡と贈り主の教養に関心を持ち歌を詠んで返します。
“寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔”
-花に近寄ってこれがその花(人)かと確かめてはどうですか。あなたが黄昏にぼんやりと見た夕顔(のように美しいという私の顔)を-
 白扇に詠んだ歌を書いてオリジナルな扇子(オリジナル扇子)を作りそれを贈る。平安時代には扇子(オリジナル扇子)を贈答やコミュニケーションの道具としても使っていたことがうかがえます。

 源氏物語の記述以外にも、平安時代には、こんな逸話があります。藤原行成(ふじわらのゆきなり)は平安時代中期の廷臣で、能書家としても知られ小野道風、藤原佐理と共に、三蹟の一人に数えられました。

 一条天皇の時代、宮中にて扇合わせ(扇子(オリジナル扇子)のデザインコンテスト)が開かれました。多くの貴族たちは扇を金銀で飾り、宝石を散りばめ、美しい風景画をあしらったりして自慢し合いました。
 藤原行成は漆を塗っただけの細身の骨に、薄い地文様の紙を張った扇を用意し、楽府(漢詩)を表には楷書で、裏には草書で散らし書きにして提出しました。
 一条天皇はこの扇を裏に表に何度も眺め「これが最も優れている」と御手箱に入れて宝物のようにしまし、他の扇は一通り眺めただけで手元には置きませんでした。

 後一条天皇の時代、新年を祝う宮中行事で藤原斉信(ふじわらのたたのぶ)が三位中将源師房(みなもとのもろふさ)を差し置いて警蹕(けいひつ:天皇の出御などの際に、先を払うために声をかけること)をしてしまうという事件が起きました。行事に出席していた行成はその一部始終を自分の扇へ書き記します。
 後日、この扇を行成の息子である行経が宮中へ上がる際に持ち出したため、藤原斉信の越権行為が知れ渡る事となりました。行成は自分が日記に書くためのメモだったと弁解しましたが、斉信は深く恨んだとのことです。 この一件では、斉信と仲の悪かった行成が、偶然を装って醜聞を広めたと見る向きもあったようです。

~檜扇の登場~

 8世紀になると団扇を折りたたんでコンパクトにするというアイデアが生まれます。束ねた板骨(いたぼね)の端に穴を開けて紙縒(こより)でまとめ、板骨の間を紐で繋いだ檜扇(ひおうぎ)です。ここが扇子(オリジナル扇子)のルーツといってよいでしょう。うちわのオリジナルは中国ですが、扇子のオリジナルは日本なのです。

 初期の檜扇は男性貴族が公の場で略式の笏(しゃく)として使用するようになり、宮中での複雑な作法を書き留めておくためのメモ帳としても使われていたと言われています。
やがて檜扇の装飾性が高まり、要も紙縒(こより)から木釘へ変わり、装飾された金具で補強されるようになります(オリジナル扇子)。板骨を綴じていた紐もより装飾性に工夫が凝らされるようになりました。

 扇面に絵が描かれるようになると装飾品として宮中の女性にも普及します(オリジナル扇子)。女性の持つ檜扇は袙扇(あこめおうぎ)と呼ばれ、装飾品としてだけではなく、とっさに他人の視線を遮る道具としても用いられていました。

 こうして檜扇は平安時代に貴族の正装の必需品となり、檜扇に関する様々な作法や様式が定められる事になります。
 檜扇は笏の代用であることから正式な作法では要の部分を持ちません。広げて持つときも要の少し上を持ちます。宮中の殿上人を模して作られている雛人形は、このように檜扇を持っています。

 平安時代には年齢、性別により檜扇の大きさや作りも違いました。老人や若年の男性は無地の檜扇、子供用には成人用よりも小さく作られ花鳥を描いた檜扇がありました。

 檜扇を略し、竹や木の骨に片面だけ紙を貼った蝙蝠扇(かわほりせん)が登場することで、現在の扇子(オリジナル扇子)の原型ができあがります。檜扇は冬服用の持ち物と定められ、蝙蝠扇は夏服用となり、あおいで涼を採るための道具としても用いられるようになります。蝙蝠扇の骨の数は今の扇子(オリジナル扇子)に比べて少なく、5本から12本ほどで、扇面の紙には物語絵や詩歌で飾られました。蝙蝠の名前は、扇を開いた形が蝙蝠(こうもり)に似ていた事に由来します。

 平安時代、藤原道綱母により書かれ、女流日記のさきがけと言われる蜻蛉日記(かげろうにっき:954年-974年)には、当時の扇についての記述があります。日記によると、骨は蒔絵を施したものや、金銀や沈(じん:香木)、紫檀(したん)など高価な素材で作られた骨に彫刻で装飾を施したものがありました。扇面にも美しい紙を貼り、詩歌をあしらったり、歌に詠まれた名所の景色を描くなどして、平安の貴族たちは扇子(オリジナル扇子)の装飾を自由に楽しんでいたようです。

 蝙蝠扇は鎌倉時代になると中国へ輸出されました。中国では紙を両面に貼った扇が作られるようになり、室町時代には日本へ「唐扇」として逆輸入され普及します。こうして現在の扇子(オリジナル扇子)の形ができあがりました。この頃、貴族や神職だけのものだった扇の使用が庶民にも認められ、扇子は能や茶道、舞踊に用いられることで、さらに庶民の間へと広まっていくことになります。

~扇子(オリジナル扇子)のルーツは日よけ~

 扇子(オリジナル扇子)の起源は古代中国の貴人が用いていた翳(さしば)にあります。翳(さしば)とは柄の長いうちわの形状をした、高貴な人物の身体を隠し神秘性を高めるための道具(威儀具:いぎぐ)です。古代中国では貴人の外出時に従者が翳を持って同行し、貴人の姿を隠すと共に周囲の庶民へ貴人の通行を伝える目印ともなっていました。

 翳は古墳時代の日本へ伝来しており、翳を象った埴輪が6世紀に造られた大室古墳群(おおむろこふんぐん:群馬県前橋市)などで出土しています。また、飛鳥時代末期に造られた高松塚古墳(たかまつづかこふん:奈良県明日香村)の壁画には翳を持った女性の姿が描かれていました。これらのことから、風を送る道具として、うちわ形状のオリジナルは中国ということができます。

 天皇が即位の儀式、朝臣の拝賀を受けるために高御座(たかみくら=天皇の正式な御座)へ座る際には、壇の下から女官が翳を掲げて天皇の顔や体を隠していた事が記録に残っています。

 日本の翳はサシバという鳥の尾羽を柄の先へ放射状に差して作られていました。サシバは鷹科の肉食鳥類で、「鷹の渡り」をすることでも知られています。東南アジアで冬を越し、日本へ4月頃に飛来して繁殖すると9月にはまた旅立っていきます。サシバの名は尾羽で翳を作ったことから名付けられたと言わており、大扇(おおおうぎ)の別名でも呼ばれています。

 平安時代になると柄の短い小型の翳が作られ、団扇(だんせん)あるいは翳(かざし)と呼ばれるようになります。団扇(オリジナル扇子)は貴族や僧侶が威厳を示すために顔を隠したり、あおいで涼を採るほか、虫を追い払うために使われていました。

 奈良の唐招提寺では毎年5月19日に鼓楼から境内の参詣者へ団扇を撒く「うちわまき」が行われます。この行事は唐招提寺中興の祖と呼ばれる覚盛上人(かくじょうしょうにん:1194年-1249年)の逸話に由来します。
 暑い夏の日、座禅する覚盛上人の腕に蚊がとまり、これに気づいた弟子の一人が蚊を叩こうとしましたが、覚盛上人は弟子を制して「蚊に血を与えるのも布施行の実践。叩くのは不殺生戒に背く」と、あえて蚊に血を吸わせる事で弟子たちに生命の尊さを示しました。
覚盛上人の死後、法華寺の尼僧たちが上人の命日に蚊を遠ざけるためのうちわを供えるようになります。尼僧の手で作られ、魔性を払う呪文が書かれたうちわは厄除けにご利益があると庶民の間へ広まり、やがてうちわまきの行事へと変化したと言われています。

 翳から生まれた団扇は貴族や僧侶らの上流階級から庶民の間へ日用品として普及し、江戸時代には文字の通り「うちわ」となって定着しました(オリジナル扇子)。また、武士には軍配団扇という形で使用されることになります。こうして団扇(オリジナル扇子)が広く使用されていく一方、上流階級の間では団扇(オリジナル扇子)に代わるものが使われ始めます。

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