扇子(オリジナル扇子)を使った遊戯 │2007年11月07日
平安時代に日本で生まれた扇子(オリジナル扇子)を利用した遊びが江戸時代に生まれました。それが「投扇興(とうせんきょう)」です。テレビなどで見たことがある方も多いのではないかと思いますが、よくお座敷あそびのひとつとして紹介されています。オリジナル扇子を使っていたかもしれません。
広辞苑で投扇興(とうせんきょう)をひいてみると、「江戸時代の遊戯の一。台の上に蝶と呼ぶいちょう形の的を立て、1メートルほど離れた所にすわり、開いた扇(オリジナル扇子)を投げてこれを落とし、扇と的の落ちた形を源氏54帖になぞらえた図式に照らして採点し、優劣を競う。1773年(安永2)頃から盛行。扇落とし、なげおうぎ。」とかかれています。
これだけでは少し分かりにくいかもしれませんね。まあ、簡単にいうと、一定距離離れたところから扇子(オリジナル扇子)を投げて的を落として、点式図と呼ばれるルールブックに従いポイントを競うゲームといったところでしょうか。
投扇興(とうせんきょう)が歴史上に登場するのは江戸時代後期になってからだそうです。「枕に蝶が休んでいる所に扇子(オリジナル扇子)を投げつけた所その蝶と扇が舞い、木枕に乗る様子がおもしろいことからこの遊びを思いついた」と当時の投扇興の本に書かれていることから、これを発祥とする説もあるそうです。
江戸時代に生まれた投扇興は、一時流行の兆しを見せたようですが、徐々に衰退していきます。今でこそオリジナル扇子を使ったお座敷遊びというイメージが強い投扇興ですが、当時は庶民の遊びだったようです。そのためか、投扇興は賭博に利用されることもあり、幕府より禁止令が出たこともあったようです。
その後、明治・大正時代に投扇興がブームになることはありませんでしたが、戦後、投扇興はその優雅さからか除所に復興され、平成になるとマスコミなどで取り上げられたことによって注目を集めるようになりました。
投扇興には大きく分けると其扇流・御扇流・都御流の3つの流派があります。流派によってルールや点式に若干の違いがあるようです。
「其扇流(きせんりゅう)」は東京浅草を中心に普及しており、正式発足が昭和50年というまだ新しい流派です。歌舞伎俳優の十二代目市川團十郎さんが家元を努め、東都浅草投扇興保存振興会を中心に活動が行われています。マスメディアに取り上げられることが多い流派です。
「御扇流(みせんりゅう)」は日本投扇興保存振興会が家元となり活動が行われています。全国で400名ほどの会員がおり、年に2回全国大会が開かれています。御扇流には段位・級位がありません。「ミス投扇興」を選出するといった面白い活動もしています。
「都御流(みやこおんりゅう)」は、京都の流派です。過去の文献からの投扇興と日本伝承文化との複合型といわれ、点式には忠実に源氏物語54帖の銘定が全て描かれています。
扇子のできるまで
一本のオリジナル扇子が完成するまでには30近い数の工程があり、そのほとんどを職人による手作業で行っています。京扇子のオリジナル扇子はそれぞれの工程を担当する職人がいて、細かい分業により作成されます。一方、江戸扇子はほとんどの工程を一人の職人が担当するため、職人それぞれの個性が魅力となっています。オリジナル扇子の作成工程は主に、扇骨の加工、地紙の加工、扇骨と地紙の組み合わせに分けられます。
扇骨(せんこつ)
扇骨の生産は滋賀県安曇川町と愛知県大治町がほとんどを占め、特に安曇川町は全国生産量の八割を生産するほどです。扇骨は節の間が40センチ以上の、三、四年育った竹から作られ、この竹は冬に切り出されます。
扇骨の長さに切りそろえられた竹は、縦に細かく割られ、扇子の外側に使われる親骨と、内側になる仲骨とで、それぞれ別の工程へ送られます。竹を煮たあと、親骨は表面を削り定められた厚みに加工します。仲骨は裏表の両面を削り取って規定の厚さにしていきます。削った数十枚の竹に要を通す穴を開け、串を通して板のように揃えます。扇骨はまとめられたまま、扇骨加工専用の工具で削られ、同じ形へと成形されます。
削られた扇骨は湯の中で漂白され、屋外に並べて昼夜干されます。この乾燥工程を「白干し」と呼び、扇形に開かれた扇骨が並ぶ様子は安曇川独特の風景として知られています。白干しを終えた扇骨は磨きをかけてつや出しや塗装が施され、仲骨は地紙へ差し込むために先端を細く削られます。
扇骨の色合いを合わせながら、扇子一本分の扇骨を要でまとめて扇骨は完成です。親骨は18工程、仲骨は16工程があると言われています。
地紙(じがみ)
扇面となる紙を地紙といいます。表面となる皮紙を、芯紙と呼ばれる薄い和紙の裏表に貼り付けます。仲骨は、この芯紙に差し込まれることになります。
地紙に絵や模様を描きます。箔押しをする場合には、最初に箔を押してから絵を描き込みます。人物を描く場合には折り目に顔がかからないようにするなど、扇面独特の描き方が要求されます。手書きの他にも、木版や型紙を用いて模様が描かれています。
絵の描かれた地紙に折り目を入れます。折り型と呼ばれる二枚ひと組の型に地紙を挟み、折り畳んでいきます。折り目のつけられた地紙に、差竹と呼ばれる道具を芯紙に突き刺し、芯紙の和紙を開くことで仲骨を差し込む空洞を作っていきます。地紙に圧力をかけて折りぐせをつけ、余分な部分を切り落とし形を整えると地紙は完成です。
組み立て
地紙と扇骨を組み合わせていきます。折られた地紙に息を吹き込み、芯紙の空洞を広げて仲骨が通しやすくします。この作業を「地吹き」と呼びます。仲骨に糊を塗り、素早く芯紙の中へ差し込んでいきます。この糊に香料を混ぜ、完成後のオリジナル扇子から香りが漂わせることもできます。仲骨の差し込まれたオリジナル扇子は一昼夜、板で挟んで圧力をかけることで安定します。最後に熱して曲げた親骨に地紙を糊付けして扇子の完成です。
このようにしてオリジナル扇子は出来上がります。
海外での扇子文化 2
スペインの扇子文化
扇子というと日本を中心としたアジア各国の文化という感じがしますが、実は遠くヨーロッパにも扇子文化が根づいています。特に、スペインでは現在でも扇子文化が生活に浸透しているといえるでしょう。
ヨーロッパに扇子が渡ったのは、日本の江戸初期、ポルトガルやスペインとの間に行われた南蛮貿易で扇子は海をわたりました。その後、ヨーロッパ各地で扇子文化が育まれましたが、時代の流れからか少しずつ衰退していった扇子文化も、スペインだけは着々と発達し続けてきました。理由ははっきりと分かりませんが、スペイン独特の暑い気候のせいなのかもしれません。スペインでは今でも多くのシーンでオリジナル扇子が使われています。
スペインでは、オリジナル扇子は扇ぐ道具以外に、インテリアや芸能の小道具、コミュニケーションの道具として使われてきました。ただ面白いことに、日本では男性も女性も使う扇子が、スペインでは女性だけしか使わないそうです。これはスペインでの扇子文化の歴史によるものではないかと思われるのですが、100年くらい前はスペインのオリジナル扇子は女性が男性への気持ちを伝える道具だったそうです。当時盛んに行われていた舞踏会で、付き添いの目を盗んで気持ちを寄せる男性にこころを伝えたといわれています。
オリジナル扇子の使い方でそれぞれ意味があり、たとえば扇子を閉じ、その後開いて頬に当てたら、「あなたを好きです」という意味になるそうです。また、胸の前でゆっくり扇いだら「私はもう求婚者がいるから構わないで」、扇子をこめかみにあてて上をみると「昼も夜もあなたを思っています」という意味になるそうです。
こういった歴史的背景から、今でもスペインでは日常的に扇子が使われています。スペインに観光に来たヨーロッパ人が、扇子でパタパタと扇ぐスペイン人をみて驚くことがよくあるそうです。他のヨーロッパ諸国で扇子はインテリアとして飾るもの。扇ぐものではないのです。そのなかでオリジナル扇子もきっと利用されていることでしょう。
スペインに独自の扇子文化が発展していることがわかるエピソードがあります。スペインのフェリペ皇太子の結婚式の際、祝賀パレードを待つたくさんの市民の手に扇子が握られていたそうです。これはマドリード市の粋なはからいで、初夏の陽射しの中でパレードを待つ人々に少しでも涼風をと、18万本の特性オリジナル扇子を用意したためでした。本当ならば、オリジナル扇子が揺れ動く中を進む馬車を見ることができたのですが、折から降り出した夕立によってそれを見ることは叶いませんでした。
しかし、結婚式と晩餐会の席では、扇子は重要な役割を果たしました。出席した王室の多くの婦人は手にオリジナル扇子を携えていました。スペインの社交界では、正装した女性が手に携える装飾小物はそのほとんどが扇子なのだそうです。挙式後のレティシア妃の手にも例外なく扇子が携えられていたそうです。
また、記憶に新しいアテネオリンピックの開会式でも、スペインの女子選手全員が真紅の扇子を振りながら入場行進する姿を見ることができました。この光景も、スペインの生活に扇子が深くかかわっているからこそといえるかもしれません。
海外での扇子文化 1
扇子の歴史でも解説しましたが、扇子は日本で生まれたまさに「メイドインジャパン」です。当然、日本国内で数百年に渡って扇子文化が育まれましたが、同時に日本から海外に伝わったオリジナル扇子も各国で独自の扇子文化を育んできました。そこではオリジナル扇子の文化も発達してたことでしょう。今回は「海外での扇子文化」について解説したいと思います。
韓国での扇子文化
日本のお隣、「韓国」でも、日本から伝えられた扇子文化が根づいています。韓国の扇子文化で特に有名なものといえば、近代に入って作られた創作舞踊「プチェチュム」と呼ばれる扇子踊りではないでしょうか。「プチェチュム」は「プチェ=扇子」と「チュム=踊り」を意味した言葉で、和訳すればまさに扇子踊りとなります。そこではきっとオリジナル扇子も使われたことでしょう。
日本の扇子が和紙で作られることが多いのに対し、韓国の扇子は透き通った薄い布で作られています。日本の扇子に比べると、柔らかく優しい印象を与えてくれる扇子といえます。
「プチェチュム」は、両手の扇子を広げる、閉じる、回すといった動きを組み合わせた複雑な踊りです。また、大勢で踊るときは2人ずつ組んで扇子で蝶の形を作ったり、全員で円になり花の形を作りながら回ったりもします。「プチェチュム」で重要なポイントは、基本的な手の振りや足の踏み出しだそうで、くるくるとなめらかに回れなければ華麗な舞いをすることはできないそうです。
中国での扇子文化
扇子はもともと中国で生まれた「うちわ」が日本に渡り、うちわを折り畳んで携帯に便利な道具に改良し「扇子」が生まれたといわれています。日本で生まれた扇子は、鎌倉時代に、禅僧などによって中国へ渡りました。
中国にわたった扇子は、ここで大きな変化がおこります。それまで日本の扇子は、片面にだけ紙が貼り付けられたものでしたが、中国で紙を両面に貼り付けるスタイルに変化したのです。中国で両面貼りになった扇子は、室町時代にまた日本へ逆輸入されました。当時、中国から渡ってきた扇子は、当時の中国の呼び名から「唐扇(からせん)」と呼ばれ、その後日本でも両面貼りの様式が使われるようになったそうです。
もちろん、中国も独自の扇子文化を形成してきました。ただ、当時の中国で扇子を持つのは一部の人間に限られていたようです。王朝時代ですと官僚や文人、民国時代も文人や知識人などのステータスの小道具としてオリジナル扇子が用いられることが多かったようです。当時の肖像画や絵画などをみると、扇子を手にしたモデルが多いことがよく分かります。
中国では「インテリ」層の小道具として発達した扇子(オリジナル扇子)ですが、一方でまったく違った発展もしました。それは「鉄扇(てっせん)」です。扇ぐ道具であったはずの扇子が、なぜが武器として発達していったというのは、非常に興味深い事実ですね。
この「鉄扇」は、文字通り骨に鉄が使われており、基本的には殴打用の武器として用いられました。かつては、武器の持ち込みが禁じられた場所で護身用の暗器(隠し持つ武器)として多く用いられたそうです。それがさらに発展し、扇子の中に刃や針を仕込んだものなども考案されていたそうです。
日本の踊りと扇子
扇子(オリジナル扇子)の使い道のひとつとして欠かせないものに、『踊り』があります。日本各地で受け継がれてきている踊りの中には、扇子(オリジナル扇子)を使ったものも多数存在しています。その多くは、『扇子踊り』と呼ばれています。どの地域の踊りも、数百年にわたる歴史を持ち、その地域で親から子へ、子から孫へと引き継がれてきたすばらしい舞です。そのルーツを見てみると、やはり「踊り」そのもののルーツである「供養・奉納」に行き着きます。そこでここでは、全国に点在する「扇子踊り」の中から、いくつかを紹介させていただきます。
1.津久見扇子踊り(大分県津久見市)
大分県の中部エリア、津久見市の夏の風物詩は「津久見市民扇子踊り大会」です。この扇子踊りは、約450年もの歴史のある伝統芸能で、毎年8月下旬に、約1000人の踊り子が舞い踊る津久見市の最大のイベントのひとつです。
この扇子踊りのルーツは、津久見が九州の有力大名「大友氏」の支配下にあった時代に、戦没した勇士や農民を供養するために、京舞いの流れをくむ「扇子踊り」ができたと伝えられているそうです。
日本各地に扇子踊りは伝承されていますが、1000人以上の踊り子がいっせいに踊る姿を見ることができるのは、この津久見だけかもしれません。
2.加茂 扇子踊り(愛媛県西条市)
愛媛県東部の西条市、その山間部「加茂地区」にも伝統の扇子踊りが継承されています。毎年8月15日の夜に、地元の誓願寺の盆踊り大会で踊られていた踊りです。
この踊りは約420年の歴史を持ち、はじまりは豊臣秀吉の四国征伐までさかのぼります。豊臣勢を迎え打つ長曽我部元親の援軍として土佐から伊予の国に入った伊東近江守祐晴が、訳あってそのまま住みつき誓願寺を建立したと言われています。そして、戦で死んだ人たちへの供養として踊りを奉納したのが始まりだそうです。
この踊りの特徴は、扇子踊りの前に刃踊りを踊ること。昔から、「刃踊り」をまず踊り、次に「扇子踊り」を踊る慣習なのだそうです。
ただ、残念なことに、平成10年まで開催されていた盆踊り大会も、人口減少・過疎化により、現在は開かれていないということです。
3.新野高原盆踊り(長野県阿南町)
長野県阿南町に、国の重要無形民俗文化財である「新野高原盆踊り」が伝承されています。この踊りは神々を供養する盆踊りの原型といわれ、「すくいさ」「高い山」「おさま甚句」「音頭」「十六」「おやま」「能登」の7種類で構成されています。扇子(オリジナル扇子)を手にして踊るのはそのなかの「音頭」「おさま甚句」「すくいさ」「おやま」の4種類です。
通常、盆踊りというと笛や太鼓、三味線などの楽器に合わせて踊りますが、この『新野高原盆踊り』は鳴り物を一切使いません。音頭台の上にいる5、6人の音頭取りの中の皮切りが最初の一句を始めると、それから朝まで唄い踊り続けるそうです。見物人を含めると2000人近くの人が集まる盛大な盆踊りです。
贈り物に扇子はいかが?
「贈り物をするんだけど何がいいかな」
「ちょっと変わった贈り物をしてみたい」
「オリジナル扇子なんてどうだろう」
最近は父の日・母の日や誕生日などのプレゼントに「扇子(オリジナル扇子)」を選ぶ人がふえています。値段的にも手軽に購入できるというのも理由のひとつでしょうが、やはりプレゼントをもらった方がいつも使えるという実用性の高さから扇子(オリジナル扇子)を選ぶ人も多いようです。専門店には、普段使いの扇子のほかにも、竹や紙・布質、装飾にこだわったギフト用の扇子も並んでいます。こういった扇子は、桐箱や持ち運び用の袋などとセットで販売されていることが多く、大切な方への贈り物としても最適です。
また、扇子は海外の友人や取引先などへのお土産としても喜ばれます。やはり日本から持っていくお土産ですから日本らしいものを持っていきたいもの。でも、人形や着物のようにかさばるものや高価なものは難しい。そんなときに重宝するのが日本伝統の「扇子」です。値段的にも手ごろですし、持ち運びもコンパクトでかさばりません。それになんといっても、これだけ日本を印象付けるものはあまりありませんね。ただ、外国の方にとっては、扇子はあおぐものというよりは日本の工芸品としての印象が強いと思います。そのため、扇子を部屋の中のインテリアとして飾ってもらうケースの方が多いと思いますので、「扇子立て」などと一緒にプレゼントされると良いかもしれません。
また、変わったところでは、会社のノベルティーとして扇子を採用するところもあるそうです。ノベルティーというとボールペンや手帳などが良く利用されますが、どうしても他の会社と同じものだとPR効果が少ない。そこで最近人気が出てきているのが「名前入りの扇子」だそうです。この名前入りの扇子は親骨の外側や内側に名前をいれることが出来ます。もっと積極的にPRしたい場合は、扇面の布や紙の部分に文字や写真・絵柄などを印刷するもので、完全オリジナルの扇子です。ノベルティーで使用する場合には、商品写真やロゴマークを入れて作成するケースが多いようです。夏になると、銀行や商店街などで名入りのうちわを配ったりしますが、あれの扇子版といったところでしょうか。ただ、うちわと違い折りたたんで携帯できますので、ノベルティーとしての効果も高いかもしれません。
このオリジナル扇子は、会社のノベルティーのほかにも、結婚式の引き出物や記念品などとして作成することも出来ます。結婚式の引き出物ですと、結婚されるお二人の写真を入れた扇子をつくったりします。他にもお孫さんの写真や大事なペットの写真を使ってオリジナル扇子を作る方も多いそうです。また、ご自分で描かれた絵や俳画、書などをを扇面にプリントしオリジナル扇子に仕立てるのもまた素敵ですね。先述した父の日・母の日のプレゼントや、お世話になった方への贈答品としても喜ばれる一品になるのではないでしょうか。
粋な扇子の選び方
扇子というと落語家さんや将棋の棋士などが着物にあわせるためか、「古い」イメージが強いようです。しかし、扇子(オリジナル扇子)は折りたためて携帯できることもあり、今でも持ち歩くことが多い夏のアイテムのひとつでしょう。最近では、クールビズ用品としての需要も高く、電車の車内やオフィスなどでも扇子を使う方が多く見受けられます。
では、実際にどんな扇子を選べば良いのでしょうか? 最近では100円ショップでも様々な種類の扇子が並んでいます。しかし、粋に扇子(オリジナル扇子)を使いこなすために、ぜひ自分にぴったりあった扇子(オリジナル扇子)を探してみてはどうでしょうか。
扇子(オリジナル扇子)を選ぶときのポイントとしては、まずその大きさ。やはり毎日持ち歩くものですから、使いやすいサイズを選びたいものです。一般的に、扇子(オリジナル扇子)には男物と女物があり、大きさも1寸ほど違います。男物扇子の場合は7.5寸(約22.5cm)、女物扇子の場合は6.5寸(約19.5cm)が一番使いやすいといわれています。この大きさですと、服の懐や袖、スーツの内ポケット、ビジネス鞄やバッグなどに入れて持ち歩くにはちょうど良いサイズとなります。ただ、手の大きさや体の大きさによっても変わってきます。体の大きい人が小さい扇子を使ってもギクシャクしてしまいますし、逆もまた然りです。やはり、鏡の前で扇子(オリジナル扇子)を一度手にとって、自分の体系にあったものを選ぶと良いでしょう。
次にチェックするポイントとしては、中の骨でしょうか。やはり骨が多い扇子(オリジナル扇子)よりも少ない扇子(14本前後)の方が良いと思います。安い扇子を見てみると、骨の数が多いため竹の部分が細くなっているものが多いようです。そのため、畳んだときに紙の部分が広く露出します。良い扇子(オリジナル扇子)をみると、竹の部分が広くなっており、畳むと紙部分よりも竹の部分の幅が広くなっています。中の骨が少ないタイプの扇子のほうが細かく紙が畳まれないので、模様もきれいに見えますし、壊れにくい扇子だと思います。
扇子に描かれている模様や色も、扇子を購入するときの大きなポイントのひとつです。最近は様々な柄の扇子が店頭に並んでいますが、普段使いの扇子ですからあまり派手な柄のものよりも、男性ならば白系のものや茶色系のもの、女性ならば薄いピンクや紫・青など、「さりげない」色使いのもののほうがお勧めです。もちろん、扇子は1人1本という訳ではありませんので、数種類の扇子を用意して、その日のファッションや気分に合わせて使い分けていただくのも良いとおもいます。
ご自分だけのオリジナル扇子を作ってみるのもよいかもしれません。
その他にも、紙の厚さや種類、竹の材質、親骨の装飾など、扇子(オリジナル扇子)を選ぶポイントはたくさんありますが、はじめての場合、まず「サイズ」「骨の数」「模様」の3つに着目して扇子(オリジナル扇子)を選んでみてください。まず何本か購入ししばらく使ってみる。すると、「もう少し大きなサイズがいいな」「今日の服にはこの扇子があうと思う」などと、だんだん自分にあった扇子が分かってきます。あとはオリジナルな一品を見つける皆さんのセンス次第ということで…。
扇子から生まれた言葉たち
平安時代に日本で生まれた扇子は、1000年以上の歴史の中で、数々の日本語にも使われるようになりました。扇子から生まれた言葉もたくさんあります。ここではその中のいくつかを紹介してみようと思います。
扇子(オリジナル扇子)から生まれた言葉の多くが、扇子(オリジナル扇子)を開いたときの形からそう呼ばれるようになったものかもしれません。扇子(オリジナル扇子)を開いたときの放射線状の形(扇形)に似ていることから作られたと考えられる言葉たちです。
扇状地(せんじょうち)
この言葉は、いまでも学校の教科書にのっているのではないかと思いますが、川が山地から平地へ流れ出る所にできた、扇形の堆積(たいせき)地形のことをこう呼びます。扇状地は川の勾配が急に小さくなり、流水の運搬力が急減するため、上流から流れてきた砂礫が堆積してできる。
扇垣(おうぎがき)
アシや竹などで、建物や塀の端に扇子(オリジナル扇子)の形につくった垣のことです。
扇貝(おうぎがい)
貝殻の形が扇状だったことから名づけられたシャコガイ・ホタテガイの別名だそうです。たしかに、ホタテの形は扇形ですね。
扇垂木(おうぎだるき)
放射状に配置された垂木のこと。禅宗の寺院建築に用いられています。
扇形グラフ(せんけいグラフ)
全体を一つの円で表し、中心角を各部分の数量に比例する角度に分けていくつかの扇形にしたグラフ。つまり円グラフのことです。
扇子車(せんすぐるま)・扇車(おうぎぐるま)
あまり耳にしない言葉ですが、三つの扇を要(かなめ)を中心にして円形に広げたものを指すそうです。上棟式(じょうとうしき)のとき、棟木の上に立てられます。
扇芭蕉(おうぎばしょう)
バショウ科の常緑高木で高さは10~30メートルにもなります。葉が幹の先から左右2列に並んで出て、扇形になることからこう呼ばれるようになったようです。マダガスカル島の原産で、湿地に生え、葉鞘(ようしょう)にたまる水を旅行者が利用したことから、旅人の木・旅人木(りょじんぼく)ともいわれています。
秋の扇(あきのおうぎ)
ことわざです。漢の成帝の宮女が、秋になって使わなくなった扇を自分の境遇に喩えた詩をよんだことから生まれた言葉です。男の愛を失った女を意味します。
扇を請ける(おうぎをうける)
この言葉は普通使うことはありません。芸事などで、奥義伝授の証(あかし)として、その流儀の扇子(オリジナル扇子)を師匠から与えられることを意味します。
扇腹(おうぎばら)・扇子腹(せんすばら)
時代劇や時代小説が好きな方はご存知な言葉かもしれませんね。江戸中期の刑罰のひとつで、武士の刑罰の中で一番不名誉なものが斬罪(ざんざい)、逆に名誉とされたものが切腹で、扇子腹はその中間の重さのものといわれています。
扇染め(おうぎぞめ)
これは染め模様の技法のひとつです。扇形をしたものの中に、花鳥・人物などを染め出したものをこう呼びます。。
この他にも、扇子(オリジナル扇子)から生まれた言葉はたくさんあります。また、海外に渡った扇子(オリジナル扇子)も、その国の言葉に大きく影響していると考えられますね。ちなみに英国の詩人ジョーゼフ・アディソンは「男が剣を吊るす様に女は扇子(オリジナル扇子)で武装する。そして手先の機敏さで征服してしまう」という言葉を残していたりもします。
冠婚葬祭と扇子 その2
婚礼は結婚式や披露宴だけでなく、お見合い、結納といった儀式、さらには仲人など結婚する当人以外の人にとっても大きなイベントとなります。
お見合い
お見合いの席で「この縁談を進めます」という意思表示として、お互いの扇子(オリジナル扇子)を取り交わします。男性からは女持ちの扇子(オリジナル扇子)を、女性からは男持ちの扇子(オリジナル扇子)を渡します。
この扇子を「見合い扇子」「おさえ末広」と呼び、恋愛結婚でも婚約期間が長い場合にはおさえ末広を取り交わしておくことがあります。
結納
結納を納める際、出席者は全員「祝儀扇」を持ちます。祝儀扇は挨拶をするときに前へ置くことで敷居の代わりとみなされ、相手にひとつ譲る気持ちを表します。
男性用の祝儀扇は竹骨の白扇、女性用の祝儀扇は黒骨に扇面の裏表を金銀に塗り分けた金銀扇などが用いられます。黒骨の親骨に家紋を入れた祝儀扇もあります。金銀扇子を置いて挨拶をするときは、要を右にして閉じた扇面の金色をした側が手前になるようにします。これは扇子を開いたときに金色の扇面が見えるようにするためです。
婚礼
花嫁は房のついた花嫁用扇子を持ちます。房の色は打掛の色に応じて決まります。花婿は白扇を持ちます。白扇の天(先端部)を金色に塗った白扇が使われる場合もあります。
花嫁、花婿以外の扇子としては、座席の名札代わりに出席者の名前を入れた扇子を開いて並べ、引出物の一つとした披露宴もあったそうです。
葬儀
弔事の際には基本的に扇子を持ちません。地域によるしきたりの違いもありますが、不祝儀扇と呼ばれる黒や暗色の扇子を持っている場合でも、おめでたい事ではないので決して開きません。法事や法要へ出席するときに携帯する、扇面にお経の書かれた扇子(オリジナル扇子)があります。
祭は年中行事や祖先の霊を祀る集まりを指します。
上棟式
上棟式は建物を新築する際、基本的な構造が完成した段階で、建物と建設作業の安全を願って行われる神道の祭祀です。上棟式では棟木に御幣(ごへい:神の依り代)を立てますが、この御幣に「扇車」を取り付けます。扇車とは、三本の日の丸模様の扇子(オリジナル扇子)を要を中心にして円形に広げたものです。扇車の中央におかめの面を取り付ける場合もあります。
エジソンと扇子
京都府八幡市の京阪電気鉄道「八幡市駅」を降りると、すぐ南に男山(おとこやま)が見えます。男山をケーブルカーで登った先には日本三大八幡宮のひとつ石清水八幡宮があります。
石清水八幡宮の建立は、弘法大師空海の弟子であった大安寺の僧「行教(ぎょうきょう)」が宇佐八幡宮にて天皇護持のため90日間の参篭参詣をした折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けたことに始まります。清和天皇の命により、すぐさま男山に本殿三宇、礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿が造営され、行教が託宣を受けた翌年、貞観2年(860)年4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座することとなりました。
以来、石清水八幡宮は王城守護の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、本社は伊勢神宮に次ぐ皇位第二の宋廟とされ、天皇・上皇の行幸や御幸は、円融天皇(第64代)の参拝以来、現在までに実に250余度にも及びます。また、源氏をはじめとする多くの武士が八幡大神を武神として信仰し、特に源頼信にはじまる河内源氏の一族は、八幡大神を氏神として信仰し全国に数多くの八幡宮を建立しました。
石清水八幡宮の敷地内にはエジソン祈念碑があります。千年をこえる伝統を持つ日本の神社と、発明家のエジソンというのは何とも奇妙な取り合わせに見えますが、エジソンによる電球の開発には石清水八幡宮のある男山と、扇子(オリジナル扇子)が深く関わっていたのでした。
エジソンは電球のフィラメント(細い線から成る発光部)として木綿糸を使っていましたが、寿命は40時間ほどしかなく、短い寿命は電球を普及させる妨げとなっていました。
より長時間の発光が可能なフィラメント素材を求めたエジソンは、6000種類にも及ぶ材料を試し、その中には友人の髭までもがあったそうです。
あるとき、たまたま見つけた扇子(オリジナル扇子)の親骨から竹の繊維を削り取り、フィラメントとして用いたところ200時間ものあいだ発光し続けたました。エジソンはすぐさま巨費を投じて世界中から1200種類もの竹を集めます。
1880年、エジソンの依頼を受けた探検家ウイリアム・ムーアが日本を訪れ、当時の首相であった伊藤博文に面会し「竹なら京都へ」との助言を得ます。ムーアは京都府知事槙村正直から「竹なら男山か嵯峨野がいい」と教えられ、手に入れたのが石清水八幡宮の真竹で作った扇子(オリジナル扇子)でした。
男山の竹から作られたフィラメントは実に2450時間の発光時間を記録し、実用に耐える電球の完成に大きく寄与しました。こうして、男山の竹はエジソン電灯会社へ輸出され、世界に明かりを灯すこととなったのです。オリジナルの電球には、日本の扇子(オリジナル扇子)からとった竹が使われていたなんて、歴史のロマンを感じますね。
エジソンの偉業と男山の竹が果たした役割を記念して、昭和9年に石清水八幡宮境内に記念碑が建てられました。毎年、エジソンの誕生日である2月と、命日の10月には記念碑に花が捧げられ、日米両国の国旗を掲揚しての碑前祭が行われています。
冠婚葬祭と扇子 その1
冠婚葬祭の冠とは本来、初めて冠を着ける元服の儀式を指しましたが、現代では拡大解釈されて子供が誕生してから人生の通過儀礼となる行事すべてを指すようになっています。
お宮詣り
お宮参りは初宮詣りとも呼ばれ、赤ちゃんが誕生して初めて産土神(産土神)へ参詣し、氏子の一員となったことを報告する行事です。お宮詣りには「宮詣り扇子」と呼ばれる特別な扇子(オリジナル扇子)を用意します。子供の名前と生年月日を書き込んだ扇子(オリジナル扇子)に、麻の皮、熨斗をそえて神社へ納めます。扇子(オリジナル扇子)は末広がりの幸福を、麻の皮は麻の丈夫さにあやかり子供の健康を願って、あるいは白く糸状の繊維を白髪に見立て長寿を願って添えらます。
七五三
七五三は11月15日に、男の子は五歳、女の子は三歳と七歳の年に、成長を祝って神社や寺などへ参詣する行事です。三歳のお参りは初めて髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、五歳は初めて袴をつける「袴着(はかまぎ)」、七歳は、初めて大人と同じ着物と帯を着ける「帯解(おびとき)」「紐落(ひもおとし)」の名残りと言われています。元は関東圏で行われていた行事でしたが、現在では全国で行われています。
五歳の男の子は大人と同様に白扇を袴の紐へ差します。七歳の女の子は飾り房のついた扇子(オリジナル扇子)を帯締めに挟んで身につけます。どちらも礼装の一部であると共に、末広がりの幸福を願う縁起物です。
十三詣り
十三詣りは近畿で主に行われる行事で、十三歳になった男女が虚空蔵菩薩に参詣する行事です。これまでの成長と大人の仲間入りをしたことを祝い、智恵を授けていただけるように虚空蔵菩薩に祈願することから、別名「知恵詣り」「知恵もらい」とも呼ばれます。
京都は嵯峨嵐山の虚空蔵法輪寺が十三詣りで有名です。「嵯峨の虚空蔵さん」として古くから親しまれた法輪寺は“難波より十三まゐり十三里もらひにのほる智恵もさまざま”と歌に詠まれるほど近畿一円から参詣者が訪れました。
虚空蔵法輪寺には面白い言い伝えがあり、参詣の帰り道で後を振り返ると、せっかく授かった智恵を返してしまうと言われ、渡月橋を渡り終えるまでは後を振り向いてはいけないとされています。
十三詣りで参詣する前には着物を肩上げしておき、参詣後すぐに肩上げを下ろすことで大人の仲間入りをします。十三詣り後は持ち物などもすべて大人の物に代わり、扇子(オリジナル扇子)も子供用から大人用の扇子(オリジナル扇子)が使えるようになりますので、十三詣りを期にオリジナル扇子を誂えます。
還暦祝い
誕生してから60年で干支が一回りし、生まれた年の干支へ戻ることから、これを「還暦」呼び長寿と健康を祝います。還暦の祝いには赤い頭巾、赤いちゃんちゃんこ、赤い座布団、寿の字が入った白扇を贈りますが、赤い物を贈るのは赤が魔除けの色とされたことや、赤ちゃんに還るという意味があります。また、還暦祝いの祝宴を開いた場合は、出席者へお返しとして扇子(オリジナル扇子)を配り、末広がりの幸福を祈念します。
落語と扇子
扇子(オリジナル扇子)をいつも手元に置いている職業といえば落語家です。落語の起源は17世紀の江戸で始まった、芝居小屋や風呂屋で身振り手振りでおもしろおかしく聴かせる「座敷仕方咄」と、同時期に大阪や京都で道端に舞台を設け、自作の噺を語って聴かせた「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)がといわれています。
江戸前の落語では扇子(オリジナル扇子)と手拭いだけを使って噺を演じます。上方落語では扇子と手拭いだけでなく、見台(けんだい:読書用の小さな机)と小拍子(こびょうし:小型の拍子木)も用いる場合がありますが、これは上方落語が辻咄に起源を持つ名残と言われています。
落語で使われる扇子(オリジナル扇子)は落語扇、高座扇とも呼ばれ、サイズは七寸五分(22.7cm)が一般的です。楽屋の符牒では「かぜ」と呼ばれます。真打(しんうち)になると自分用のオリジナル扇子を持つことができるようになりますが、白い扇面へ名前とワンポイントの模様を入れる程度で、色の付いた扇子(オリジナル扇子)はほとんど使われません。高座では扇子(オリジナル扇子)を、手つき、視線、動作で様々な物を表現するため、色が付いているとイメージを損なうため、白が用いられているようです。取り出す際に引っ掛かるのを防ぐため、親骨を削って面取りをした扇子(オリジナル扇子)を持つ噺家もさんもいます。
上方落語の大看板として知られる三代目桂春團治(かつらはるだんじ:1930年生)は、芸に対して研究熱心なことで知られています。70席を超えるネタを持ちながら、納得のいく完成度に達した噺だけを高座で演じるという完璧主義のため、持ちネタが少ないと誤解された事もありました。落語で演じる身振り手振りを追求するために入門した山村流舞は、名手と呼ばれるほどです。
高座で羽織を脱ぐ姿にもこだわりを見せ、噺の本題へ入る前に羽織を脱ぐ仕草がリズムを悪くしていると考えた春團治師は、羽織を後ろ手で落とすように脱ぐ、独自の方法を考え出しました。さらに、羽織の袂を着物より大きく作ることで動作に誤りがないようにするなど完璧主義者ぶりを発揮しています。そんな春團治師の完璧主義者ぶりが最も現されている噺が『親子茶屋(おやこぢゃや)』です。
親子茶屋は、商家の大旦那と若旦那の滑稽噺で、明和4年(1767)の笑話本『友達ばなし』中の一遍である『中の町』が元になっています。
連日のように芸妓遊びを続ける若旦那をさんざんに叱った大旦那、番頭さんの勧めで気晴らしのお寺参りへと出かけます。ところが大旦那の向かった先はお寺ではなく花街、実は大旦那も大の遊び好きで店の者にも知られぬようずっと隠れて芸妓遊びを続けていたのでした。
「わしが使う、倅が使うではうちの身上もたまったもんじゃない」とぼやきながらも馴染みの茶屋へ上がり、いつものように芸妓を呼ぶと「狐釣り」で遊び始めます。
※狐釣り:狐を罠に掛けて捕る猟。お茶屋遊びの狐釣りは歌い踊りながら、扇子の目隠しをした狐役から逃げる鬼ごっこ
釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、狐どんを釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな
釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、親旦那を釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな
番頭を騙して店から逃げ出してきた若旦那が花街へやってくると、昼間から大騒ぎして遊ぶ声が聞こえてきます。茶屋の女将から、六十を過ぎた年寄りが遊んでいると聞いた若旦那は「昼間から茶屋遊びとは、家の親父にも見習わせたいわ」と、座敷に居るのが自分の父親とも知らず、料金の半分を支払うと申し出て狐釣りに参加します。大旦那が親狐、若旦那は子狐と二人とも扇子の目隠しをしたまま狐釣りが再開されます。
釣ろよ 釣ろよ 信太の森の 仔狐どんを釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな
釣ろよ 釣ろよ 信太の森の 親旦那を釣ろよ
やっつく やっつく やっつくな やっつく やっつく やっつくな
二人で大騒ぎをしたあと、いよいよご対面と二人が扇子の目隠しを外します。
「あっ! あんた、お父ちゃん!」
「せ、倅やないか! ・・・・博打だけはならんぞ」
春團治師のこだわりは狐釣りの場面にあります。狐釣りは三分の一ほど開いた扇子を要を下にして額へ当て、しごきを鉢巻きのように結ぶことで目隠しにして遊びます。目隠しの扇子(オリジナル扇子)が先の尖った狐の顔のように見えるという趣向です。
春團治師は親子茶屋を口演するため、専用の扇子(オリジナル扇子)まで作成しました。扇子(オリジナル扇子)が狐の顔に見える最もきれいな角度で開くよう、扇面の一部を糊付けしたのです。ここまでこだわったオリジナルの扇子を使っているのは春團治師だけだそうです。
歴史の中の扇子(オリジナル扇子)~足利尊氏~織田信長
次に室町時代から戦国時代における歴史に登場した扇子(オリジナル扇子)を見てみましょう。足利尊氏(あしかがたかうじ:1305年-1381年、室町幕府の初代将軍)が征夷大将軍となった翌年、後醍醐天皇の菩提を弔うため嵯峨の地に寺院の建立を命じました。
寺は当初、年号をとって暦応資聖禅寺と名付けられる予定でしたが、比叡山が年号を寺号とすることに反対たため、足利尊氏の弟直義が寺の南を流れる川(保津川)に金色の竜が現れる夢を見たことにちなみ天龍資聖禅寺と号されます。1345年、後醍醐天皇の七回忌法要を兼ねて盛大な落慶法要が営まれ、天龍寺は開かれます。その後、天龍寺は京都五山(禅宗寺院の格式における最上位の五寺院)の第一位として発展していくこととなります。
足利尊氏が天龍寺へ参詣したとき、お供として従っていた童子が誤って扇子(オリジナル扇子)を川へ落としてしまいました。落ちた扇子が川面を流れる様の優美さに尊氏がたいへん喜び、それ以来尊氏の天龍寺参詣に際しては、従う人々がこぞって扇子(オリジナル扇子)を川へ流すようになりました。
扇子(オリジナル扇子)が川面を流れる情景は、後に「扇流し」と呼ばれる文様へとデザイン化されますが、オリジナルデザインはここにあります。流水文の上に様々に開いた扇子(オリジナル扇子)を散らしたこの文様は室町時代に大流行しました。
現代、尊氏の故事は車折神社(くるまざきじんじゃ)の「三船祭」に受け継がれています。三船祭は毎年五月第三日曜日に行われ、祭神である清原頼業の活躍した当時を偲び平安時代の船遊びを再現するお祭りです。
祭りの日には嵐山の大堰川(おおいがわ)へ二十数隻の船を浮かべ、神霊の乗った御座船(ござぶね)の前で平安時代の装束に身を包んだ人々が芸能、芸術を披露し奉納します。
諸芸の上達を願って神社へ奉納された扇子(オリジナル扇子)が、扇流船(おうぎながしぶね)の上から川の流れへ浮かべる、扇流しの行事が行われると祭りのクライマックスが訪れます。
人々は足利尊氏の愛した情景を川岸から眺め、流された扇子を受け取ることで諸芸上達の御利益を願います。
永禄11年(1568年)9月、織田信長(おだのぶなが:1534年-1582年)は15代将軍足利義昭を奉じ、美濃(岐阜)より京へ上洛を開始しました。信長が南近江(滋賀県南部)の六角氏を退け京へと至ると、京を支配していた三好氏は信長に臣従あるいは本拠地の阿波(徳島県)へ撤退しました。こうして信長は15代足利義昭を将軍として擁立し、日本で最も有力な戦国大名となります。信長が東福寺(京都市東山区)へ入ると、京の名士たちが献上物を携えて次々と挨拶にやってきました。
高名な連歌師であった里村紹巴(さとむらじょうは)も挨拶に訪れ、信長の前へ出ると三方に乗せた二本の扇子(オリジナル扇子)を献上し、句を詠みました。“二本(日本)手に入る 今日のよろこび”すぐさま信長は脇句を詠みます。“舞い遊ぶ千代万代(ちよよろずよ)の扇にて”紹巴との歌の遣り取り伝え聞いた京の人々は、信長が武力だけの乱暴者ではなく一流の教養を身につけた人物であると知り安心をしました。
歴史の中の扇子(オリジナル扇子)~那須与一 扇の的~
平家物語は平家の繁栄と源家との戦いを経て滅亡するまでを描いた軍記物語で、鎌倉時代に成立しました。源平の合戦のなかでも、両者の運命を象徴する重要な場面が第十一巻那須与一 扇の的です。
屋島合戦は1185年2月に讃岐国(今の香川県)屋島で戦われました。源義経(みなもとのよしつね)は平家が本拠を置いていた屋島を急襲し、平家は海上へと逃れます。義経の軍が少数であることを知った平家方は船を接近させて多数の矢を射かけました。やがて日没が近づき、自然と休戦になろうとしていたとき平家方から美女の乗った小舟が現れます。
舟の舳先に立てられた竿の先端には、紅色の地に金箔で日の丸の描かれた扇が付けられ、美女はこちらにむかって手招きをしています。扇を射てみよとの平家からの挑戦でした。義経は源家の面目にかけて扇を射落とすよう命じます。そして選ばれたのが那須与一(なすのよいち)でした。
与一は的を射ることを一度は辞退しますが、義経に強く命令され、半ば開き直るようにして的を射る役目を引き受けます。黒い馬にまたがった与一は岸からでは的に遠いので馬を海へと乗り入れます。二月十八日の夕刻、厳しい北風と打ち寄せる高い波が的を乗せた小舟を上下に揺らしていました。こうして平家物語屈指の名場面が始まります。
“与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜(た)ばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面(おもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせたまふな」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一 鏑(かぶら)を取つてつがひ、よっぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、誤たず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。
鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日(せきじつ)の輝いたるに、皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。”
与一の射た鏑矢は的となった扇の要から一寸ほど上に当たり、切り飛ばしました。この平家方が掲げた的の扇は、軍扇であったと思われます。もしかしたらオリジナル扇子だったのかもしれません。軍扇は武士の持ち物で、各自が武運を願い親骨に縁起物の彫刻を施すなどしてオリジナル性を出していますが(オリジナル扇子)、扇面は赤地か金色地に日輪という、共通したデザインになっていました。佐治氏の家紋は軍扇紋と呼ばれ、開いた扇の扇面に日輪が描かれています。
歴史の中の扇子(オリジナル扇子)~平安時代~
扇子(オリジナル扇子)は、歴史の中にしばしば登場します。まずは、平安時代の中から扇子を見てみましょう。
源氏物語は平安時代の中期に成立した長編小説です。作中には王朝期の風俗も描写されており、当時の貴族が扇子(オリジナル扇子)を様々な場面に使用していたことがうかがえます。
源氏物語四帖「夕顔」第一段では物語の主人公、光源氏が従者に夕顔の花を摘ませているところへ童女が現れ、香を焚きしめた白扇を差し出し、摘んだ花を載せるよう勧めます。
「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる 童のをかしげなる出で来て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを「これに置きて参らせよ。枝も 情けなげなめる花を」
この白扇には贈り主(夕顔)の詠んだ歌が書かれていました。
“心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花”-あて推量に、あれがその花(人:光源氏)かと思って見ています。夕暮れに白露が降りてかすかな光が浮き立たせている夕顔の花(のように美しいあなた)を-
光源氏は上品な筆跡と贈り主の教養に関心を持ち歌を詠んで返します。
“寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔”
-花に近寄ってこれがその花(人)かと確かめてはどうですか。あなたが黄昏にぼんやりと見た夕顔(のように美しいという私の顔)を-
白扇に詠んだ歌を書いてオリジナルな扇子(オリジナル扇子)を作りそれを贈る。平安時代には扇子(オリジナル扇子)を贈答やコミュニケーションの道具としても使っていたことがうかがえます。
源氏物語の記述以外にも、平安時代には、こんな逸話があります。藤原行成(ふじわらのゆきなり)は平安時代中期の廷臣で、能書家としても知られ小野道風、藤原佐理と共に、三蹟の一人に数えられました。
一条天皇の時代、宮中にて扇合わせ(扇子(オリジナル扇子)のデザインコンテスト)が開かれました。多くの貴族たちは扇を金銀で飾り、宝石を散りばめ、美しい風景画をあしらったりして自慢し合いました。
藤原行成は漆を塗っただけの細身の骨に、薄い地文様の紙を張った扇を用意し、楽府(漢詩)を表には楷書で、裏には草書で散らし書きにして提出しました。
一条天皇はこの扇を裏に表に何度も眺め「これが最も優れている」と御手箱に入れて宝物のようにしまし、他の扇は一通り眺めただけで手元には置きませんでした。
後一条天皇の時代、新年を祝う宮中行事で藤原斉信(ふじわらのたたのぶ)が三位中将源師房(みなもとのもろふさ)を差し置いて警蹕(けいひつ:天皇の出御などの際に、先を払うために声をかけること)をしてしまうという事件が起きました。行事に出席していた行成はその一部始終を自分の扇へ書き記します。
後日、この扇を行成の息子である行経が宮中へ上がる際に持ち出したため、藤原斉信の越権行為が知れ渡る事となりました。行成は自分が日記に書くためのメモだったと弁解しましたが、斉信は深く恨んだとのことです。 この一件では、斉信と仲の悪かった行成が、偶然を装って醜聞を広めたと見る向きもあったようです。
~檜扇の登場~
8世紀になると団扇を折りたたんでコンパクトにするというアイデアが生まれます。束ねた板骨(いたぼね)の端に穴を開けて紙縒(こより)でまとめ、板骨の間を紐で繋いだ檜扇(ひおうぎ)です。ここが扇子(オリジナル扇子)のルーツといってよいでしょう。うちわのオリジナルは中国ですが、扇子のオリジナルは日本なのです。
初期の檜扇は男性貴族が公の場で略式の笏(しゃく)として使用するようになり、宮中での複雑な作法を書き留めておくためのメモ帳としても使われていたと言われています。
やがて檜扇の装飾性が高まり、要も紙縒(こより)から木釘へ変わり、装飾された金具で補強されるようになります(オリジナル扇子)。板骨を綴じていた紐もより装飾性に工夫が凝らされるようになりました。
扇面に絵が描かれるようになると装飾品として宮中の女性にも普及します(オリジナル扇子)。女性の持つ檜扇は袙扇(あこめおうぎ)と呼ばれ、装飾品としてだけではなく、とっさに他人の視線を遮る道具としても用いられていました。
こうして檜扇は平安時代に貴族の正装の必需品となり、檜扇に関する様々な作法や様式が定められる事になります。
檜扇は笏の代用であることから正式な作法では要の部分を持ちません。広げて持つときも要の少し上を持ちます。宮中の殿上人を模して作られている雛人形は、このように檜扇を持っています。
平安時代には年齢、性別により檜扇の大きさや作りも違いました。老人や若年の男性は無地の檜扇、子供用には成人用よりも小さく作られ花鳥を描いた檜扇がありました。
檜扇を略し、竹や木の骨に片面だけ紙を貼った蝙蝠扇(かわほりせん)が登場することで、現在の扇子(オリジナル扇子)の原型ができあがります。檜扇は冬服用の持ち物と定められ、蝙蝠扇は夏服用となり、あおいで涼を採るための道具としても用いられるようになります。蝙蝠扇の骨の数は今の扇子(オリジナル扇子)に比べて少なく、5本から12本ほどで、扇面の紙には物語絵や詩歌で飾られました。蝙蝠の名前は、扇を開いた形が蝙蝠(こうもり)に似ていた事に由来します。
平安時代、藤原道綱母により書かれ、女流日記のさきがけと言われる蜻蛉日記(かげろうにっき:954年-974年)には、当時の扇についての記述があります。日記によると、骨は蒔絵を施したものや、金銀や沈(じん:香木)、紫檀(したん)など高価な素材で作られた骨に彫刻で装飾を施したものがありました。扇面にも美しい紙を貼り、詩歌をあしらったり、歌に詠まれた名所の景色を描くなどして、平安の貴族たちは扇子(オリジナル扇子)の装飾を自由に楽しんでいたようです。
蝙蝠扇は鎌倉時代になると中国へ輸出されました。中国では紙を両面に貼った扇が作られるようになり、室町時代には日本へ「唐扇」として逆輸入され普及します。こうして現在の扇子(オリジナル扇子)の形ができあがりました。この頃、貴族や神職だけのものだった扇の使用が庶民にも認められ、扇子は能や茶道、舞踊に用いられることで、さらに庶民の間へと広まっていくことになります。
~扇子(オリジナル扇子)のルーツは日よけ~
扇子(オリジナル扇子)の起源は古代中国の貴人が用いていた翳(さしば)にあります。翳(さしば)とは柄の長いうちわの形状をした、高貴な人物の身体を隠し神秘性を高めるための道具(威儀具:いぎぐ)です。古代中国では貴人の外出時に従者が翳を持って同行し、貴人の姿を隠すと共に周囲の庶民へ貴人の通行を伝える目印ともなっていました。
翳は古墳時代の日本へ伝来しており、翳を象った埴輪が6世紀に造られた大室古墳群(おおむろこふんぐん:群馬県前橋市)などで出土しています。また、飛鳥時代末期に造られた高松塚古墳(たかまつづかこふん:奈良県明日香村)の壁画には翳を持った女性の姿が描かれていました。これらのことから、風を送る道具として、うちわ形状のオリジナルは中国ということができます。
天皇が即位の儀式、朝臣の拝賀を受けるために高御座(たかみくら=天皇の正式な御座)へ座る際には、壇の下から女官が翳を掲げて天皇の顔や体を隠していた事が記録に残っています。
日本の翳はサシバという鳥の尾羽を柄の先へ放射状に差して作られていました。サシバは鷹科の肉食鳥類で、「鷹の渡り」をすることでも知られています。東南アジアで冬を越し、日本へ4月頃に飛来して繁殖すると9月にはまた旅立っていきます。サシバの名は尾羽で翳を作ったことから名付けられたと言わており、大扇(おおおうぎ)の別名でも呼ばれています。
平安時代になると柄の短い小型の翳が作られ、団扇(だんせん)あるいは翳(かざし)と呼ばれるようになります。団扇(オリジナル扇子)は貴族や僧侶が威厳を示すために顔を隠したり、あおいで涼を採るほか、虫を追い払うために使われていました。
奈良の唐招提寺では毎年5月19日に鼓楼から境内の参詣者へ団扇を撒く「うちわまき」が行われます。この行事は唐招提寺中興の祖と呼ばれる覚盛上人(かくじょうしょうにん:1194年-1249年)の逸話に由来します。
暑い夏の日、座禅する覚盛上人の腕に蚊がとまり、これに気づいた弟子の一人が蚊を叩こうとしましたが、覚盛上人は弟子を制して「蚊に血を与えるのも布施行の実践。叩くのは不殺生戒に背く」と、あえて蚊に血を吸わせる事で弟子たちに生命の尊さを示しました。
覚盛上人の死後、法華寺の尼僧たちが上人の命日に蚊を遠ざけるためのうちわを供えるようになります。尼僧の手で作られ、魔性を払う呪文が書かれたうちわは厄除けにご利益があると庶民の間へ広まり、やがてうちわまきの行事へと変化したと言われています。
翳から生まれた団扇は貴族や僧侶らの上流階級から庶民の間へ日用品として普及し、江戸時代には文字の通り「うちわ」となって定着しました(オリジナル扇子)。また、武士には軍配団扇という形で使用されることになります。こうして団扇(オリジナル扇子)が広く使用されていく一方、上流階級の間では団扇(オリジナル扇子)に代わるものが使われ始めます。
扇子(オリジナル扇子)の構造
最近は扇子(オリジナル扇子)にも様々なものがありますが、基本的な構造は昔から変わっておらず、いくつかのパーツで構成されています。
まず基本となるのは、一般に竹や木で作られている棒状の部分。これを『骨(ほね)』といいます。この骨の中で最も外側に位置する部分が『親骨(おやぼね)』と呼ばれる部分です。これらの骨や親骨を根本で固定する釘が『要(かなめ)』。これらでできた骨組みに貼る紙や布の部分が『扇面(せんめん)』になります。どんな扇子(オリジナル扇子)もこれらの4つの部分で構成されています。
骨(ほね)
人間でも骨がすべての基本になると同じように、扇子も『骨』の部分がしっかりしていないといけません。
通常、扇子の骨は竹製や木製のものが多いようです。中には、象牙(ぞうげ)や鼈甲(べっこう)で作られた物や、武術で用いられる『鉄扇(てっせん)』などのように鉄などの金属を使用する場合もありますが、たいていの場合は竹または木で製作されます。
骨の形は、一見すると一枚の板のように見えますが、実は先端に向かって細くなるように加工されています。
この骨の本数はサイズによって多少異なりますが、通常は14~20本前後で、一般的に骨の多い扇子(オリジナル扇子)よりも14本前後の骨の少ないもののほうが使いやすいといわれていますが、骨の数が多い扇子の場合、骨は風を作り出す構造としての役割と果たしていることも多々あるようです。
親骨(おやぼね)
骨の中でも最も外側に位置する骨を『親骨』と呼びます。通常の骨は先端に向かって細くなるように設計されていますが、この親骨は逆で、先端に向かって広くなる形状になっています。また、扇子(オリジナル扇子)の親骨を内側へ向かって反るように加工することで、閉じた扇子が簡単に開かなくなります。
この親骨の部分は、扇子(オリジナル扇子)のデザインを決める重要な部分となります。高級な扇子になると、この親骨に漆塗りや蒔絵などの細工が施されていることもあります。また、最近は、オリジナル扇子の『扇面(せんめん)』への印刷以外にも、親骨の部分に名入れする「名前入りの扇子(オリジナル扇子)」がノベルティーなどに使われています。やはり、扇子(オリジナル扇子)を閉じた時に見えるほとんどの部分は『親骨(おやぼね)』となりますので、特に念入りな装飾が施されることが多いようです。
要(かなめ)
『要(かなめ)』という言葉は、「肝心要(かんじんかなめ)」や「チームの要」など、物事の最も大切な点や事柄・人物・要点などを指します。そしてこの言葉が扇子(オリジナル扇子)のパーツの名称から使われるようになったということはあまり知られていないようです。
扇子のパーツの中では、骨を根本でまとめて固定するプラスチックや金属製の釘を『要(かなめ)』と呼びます。つまり、『要(かなめ)』は扇子の骨の部分をまとめている大切な物であることから、重要なことなどを指す言葉として使われるようになったようです。
扇面(せんめん)
扇子(オリジナル扇子)を開いたときにメインとなるのが『扇面(せんめん)』です。紙製や布製のものがほとんどで、扇子(オリジナル扇子)をあおぐことで風を送り出す部分です。
伝統的な扇子(オリジナル扇子)の場合、材質は和紙を用いることが多いようですが、最近では合成繊維や布などを使用したものもあります。また、『扇面(せんめん)』には骨が完全に開ききらないように固定する働きもあります。
『扇面(せんめん)』は、人間でいうと顔と同じで、この『扇面(せんめん)』に様々な装飾をすることによってデザインのオリジナル性を出すことが多いです。主な装飾は文字や文様で、この美しさにやデザイン性によって扇子の価値が変わるといっても良いかもしれません。特に日本画の世界では、『扇面(せんめん)』に絵を描く扇絵(おうぎえ)とよばれる形式があり、この技術は俵屋宗達や尾形光琳などによって発展したものだといわれています。
扇子(オリジナル扇子)の主なパーツは、この「骨」「親骨」「要」「扇面」ですが、そのほかにも扇子(オリジナル扇子)を閉じた状態の時に使用する『責(せめ)』と呼ばれる扇を止める帯状の輪や、携帯の際に使用する持ち運び用の袋、保管用の桐箱、インテリアなどに使用する際に使う「扇子立て」など、扇子(オリジナル扇子)関連商品にもたくさんのものがあり、扇子(オリジナル扇子)を楽しむ時にかかせないアイテムとなっております。
扇子(オリジナル扇子)の種類
京扇子(きょうせんす)
扇子(オリジナル扇子)の生産は平安時代の京都で始まりました。現在も京都市、五条大橋の西北詰に扇子(オリジナル扇子)生産発祥の地を記念した扇塚があります。京扇子の製作に当たっては二十もの各工程をそれぞれ専門の職人が担当する分業制を採っています。京扇子には江戸扇子と比べると骨の数が多いという違いがあります。また、扇面のデザインは豪華さや優雅さに特徴があります。
江戸扇子(えどせんす)
京都で行われていた扇子(オリジナル扇子)生産は、元禄時代に京都から移ってきた宝扇堂久阿弥の初代金兵衛によって江戸へ伝わります。江戸扇子は京扇子に比べて骨の数が少なく紙の折幅が広いのが特徴です。扇面のデザインは江戸の人々の好みに合わせて、さっぱりした、粋を意識したものが主流となっています。江戸扇子の製作は絵付けをする絵師、組み立てをする仕立て師だけの少人数で作られるのも特徴です。
蝙蝠扇(かわほりせん)
平安時代、最初に登場した紙貼りの扇子です。宮中では夏服用の扇子(オリジナル扇子)として正式に採用されました。蝙蝠扇の骨は五本で、片面にだけ紙が貼られていました。名前の由来は、元は「かみはり」と呼んでいたものが変化して「かわほり」となり、さらに中国で古来より吉祥獣とされていた蝙蝠の字をあてたと言われています。あるいは扇を開いた形が蝙蝠に似ていたことからとも言われています。
六骨(ろっこつ)
蝙蝠扇より一本多い六本の骨でできた扇子(オリジナル扇子)です。扇面には紙が両面から貼られていました。六骨は鎌倉時代に上級武士の間で流行します。現代でも、舞踊において奈良、平安時代の王族や公家、武家の男女の役の持ち扇として使われています。
中啓(ちゅうけい)
室町時代に誕生した扇子(オリジナル扇子)の形のひとつが中啓です。親骨が外に向かって反る形になっており、扇子(オリジナル扇子)を閉じると先端部が開く(啓く)ことから中啓と呼ばれました。現代では歌舞伎や能楽、僧侶や神官の持ち物として使われています。扇子(オリジナル扇子)を末広と呼びますが、中啓の末広がりになった形を指して生まれた言葉です。
雪洞(ぼんぼり)
室町時代に誕生した扇子(オリジナル扇子)の形のひとつです。親骨が中啓よりも小さく反っており、中啓の略式として宮中や僧侶らに用いられます。
鎮折(しずめおり)
室町時代に誕生した扇子(オリジナル扇子)の形のひとつです。扇子(オリジナル扇子)が簡単に開かないよう、親骨の先端を少し内側へ曲げてあります。最も一般的な扇子の形です。
舞扇(まいおうぎ)
日本舞踊に使われる扇子(オリジナル扇子)です。骨の数は十本あり、扇面には舞踊の演目に合わせた図柄を見栄えよく描きます。能の裳束をつけず舞だけを演じることを仕舞(しまい)と呼び、仕舞に用いる仕舞扇(しまいおうぎ)は舞扇よりも大きなものになります。
茶扇(ちゃせん)
茶席にて携帯するため、やや小さく作られた扇です。常に閉じた状態で使われ、挨拶をするとき、何かを拝見する際に膝の前へ置きます。膝の前へ置かれた茶扇は「敷居」の代わりとされ、謙譲の意を現します。
鉄扇(鉄扇)
親骨が鉄で作られた扇子(オリジナル扇子)で、武士が護身用に携帯しました。新撰組の筆頭局長であった芹沢鴨は「尽忠報国」と書かれた三百匁(1125g)の鉄扇を持っていました。閉じた扇子を模した金属の棒を鉄扇と呼ぶ場合もあります。
洋扇(ようせん)
扇子(オリジナル扇子)は誕生以降、日本から中国への輸出品のひとつでした。やがてインドを経由して扇子がヨーロッパへと渡ります。小さく折りたためる利点と、装飾性が評価されヨーロッパの上流階級へ広まった扇子が独自の発展を遂げた結果、洋扇が完成します。
鳥の羽根やレースを貼った扇子(オリジナル扇子)などが作られ、十七世紀のパリには扇を扱う店が150軒を数えるほどでした。日本の扇子と洋扇ではいくつかの違いがあります。日本では固く閉じる扇子(オリジナル扇子)を良い物としますが、洋扇では軽い力で広がる扇子が良い物とされました。扇面の絵は、日本では扇形の弧に合わせて水平の線も曲線で描くのに対し、洋扇では水平の線は直線で描かれます。扇子の骨も、日本の扇子に比べて洋扇は数が多いのが特徴です。
扇子(オリジナル扇子)と私たち
高温多湿な日本の夏を快適に過ごすため、現代社会ではエアコンが普及しています。ただ、このエアコンは、ほんの30年ほど前まで一般家庭に普及することはありませんでした。その前には扇風機。電気が一般化する前には、風鈴や団扇、そして扇子(オリジナル扇子)が使われていました。
扇子(オリジナル扇子)の歴史はとても古く、平安時代に遡ります。それよりはるか前、中国から風を送る道具として団扇が伝わりました。団扇自体は中国で発明されたようです。これが日本に伝わり、改良が加えられ、今の扇子(オリジナル扇子)とデザイン的に変わらないものが生み出されたのが平安時代です。今から1000年以上前の日本においても、「カイゼン」が行われていたと思うと不思議な歴史を感じます。
現代日本においても海外で発明されたものが、日本で改良され、世界に旅立っていったものがたくさんあり、これらが技術立国と呼ばれるひとつの理由になっています。戦後まもなくアメリカで役立たずと思われていたトランジスタが、日本の改良により全てといってもいい家電製品内に使われているのと同じようなことが、はるか昔、平安の世でも起こっていたわけです。そういう意味で扇子(オリジナル扇子)は日本改良技術の源なのかも知れません。
扇子(オリジナル扇子)が生み出されると同時に、この道具は、お茶や歌、絵画など文化にさまざまな影響を与えました。源氏物語には、たくさんの扇子がでてくるシーンがありますし、扇子は歌を運ぶ媒体としての役割も持っていました。また絵画の世界においては、扇形という、扇子(オリジナル扇子)に貼り付けることを前提としたキャンパスの形が生み出されました。はるか昔、印刷技術などまだなかった時代からでも、無色の味気ないものを使うより、「この世でたったひとつ」のオリジナルを求める人々がいたからこその発展でしょう。
今も昔も私たちは「よい品」を望んでやみません。大量生産品から、高級な手作り品やブランド品へ、そして、それをも超えた誂えの一品へという流れは、扇子(オリジナル扇子)に限らず、衣服や小物、宝飾品に至るまで共通の流れありましょう。「より良いものを求めたい」「他にはない、この世に1つのものを保有したい」というのはとても贅沢なことともいえます。でも扇子ならビックリするほどの金額を投入する必要はないのです。むしろ、あなたにあった紋様を見つけたり、利用シーンに合わせて考えるといったことに時間がかかるのではないでしょうか?
日本の伝統的な紋様に見とれる。四季を感じさせる品をもって街に出る。あるいは冠婚葬祭や行事などにあったものを持つ。そんな贅沢な時間を提供してくれるのがオリジナル扇子でありましょう。
もちろん、好きな写真から絵柄を選んだり、作り方は人それぞれが自由に選べます。既成品を買うことに飽きたり、今使っている扇子が使いにくいと思っていたら、扇子を新調してはいかがでしょうか?世界にひとつのオリジナル扇子は、ひと時の涼を私たちに与えてくれるだけでなく、その絵柄で私たちを楽しませてくれることでしょう。